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黒い背中


  シランドでは日が地平線に傾き始めていた。ネルはその工房の、ある部屋の入り口に立っていた。今日は人が居ないのか、扉の向こう以外に人の気配はしない。目の前の扉をネルは、ゆっくりと、音を立てないように開いた。
 どうして普通に開かなかったのか、自分でもよく分からなかった。別にやましい事があったわけでもないのに。
 開いた扉の向こうでは、黒いコートに黒い帽子で真っ黒けな背中が机に向かっていた。彼の背中は、奥の窓から入ってくる光が逆光になって、何だか黒い塊にさえ見えた。茜色の光に、思わず目を細める。
 黙々とペンを走らせ続けるその背中を見ながら、ネルは何をするでもなく、ただ入り口に立っていた。

「いつまでもそこで突っ立ってないで入ってきたら?」
 不意に掛けられた声に、ぼんやりしかかっていたネルは少しの驚きとともに現実に引き戻された。
「なんだ、気がついてたのかい」
 ネルは黒い背中に向かってため息を漏らす。それから部屋の扉をくぐった。
「なんとなくね」
 相変わらず向こうを向いたまま、彼は答えた。ネルも、何を言うでもない。
 二人の間にはただ静かな羽ペンの音だけが響いていた。部屋に入ってくる光は、次第にその赤みを増してくる。
 しばらくして、彼はペンを置いた。
「てっきり、彼らと一緒に行ったものだと思ってたよ」
「彼ら?」
「フェイト君達の事さ。キミのところにも寄ったんだろ?」
 振り向いた彼の表情は、やはり後ろの窓から差し込んでくる光でよく見えなかった。
「・・・行きたくなかったって言ったら嘘になるけどさ、生憎私は忙しいんだよ。それに、もう私が付いていける次元の話じゃなくなってるみたいだしね」
 確かに、と笑うコーネリアスの横を通り過ぎると、ネルは窓に薄いレースのカーテンを、さっと引いた。
 アペリスの光は少し弱まって、眩しそうにしていた彼の顔に、影の濃淡を柔らかく浮かび上がらせた。
「眩しいんだったらカーテンくらい自分で閉めなよ」
「いやぁ、どうにも筆が止まらなくてね。ありがとう」
 コーネリアスの言葉を聞いて、ネルは二回目のため息をついた。
「そもそもこんな眩しい所で仕事をする必要があるのかい?壁際にするとか、せめて窓から離すとか、もっとやりようってもんがあるだろう?」
「いや悪いな、気を使わせちゃって。でもこれは、ちょっとワケありでね・・・」
 コーネリアスは笑いを堪えるように一呼吸置くと、再び口を開いた。
「それで、仕事が忙しくて行きたかった旅にも行けなかったキミが、またどうしてこんなところに来て、こんなに熱心にお説教をしてくれるんだい?」
 その言葉を理解したとき、さっきまで夕日の熱を感じていた後ろ頭の、何倍も顔が熱くなっていた。
「そっ、そんなの私のかっ、勝手じゃないか・・・!」
 思わずそっぽを向いたでも、さっきまで眩しかった光はカーテンで弱くなったから、動揺している顔が丸見えだ。
 カーテンなんて引かなきゃ良かったと後悔した。舌も上手く回っていない。
 そんなとき不意に、彼が書いていたモノが目に入った。文字までは見えなかったが、どう見てもそれは、本来作られるべきモノではなかった。ここは何とか話題を変えなくてはいけない。
「あんた、また詩ばっかり書いてたのかい?もっと真面目に仕事しな!」
 ネルの怒った声に、コーネリアスは少し困ったような笑いを浮かべた。
「仕方ないだろ?元々施術関係には明るくないんだ。一人じゃ無理さ。それに本分はそっちだからね」
 勘違いされちゃ堪らないよ、とコーネリアスは笑ってみせた。それにつられて、ネルの頬も少し緩んだ。それがいけなかった。
「で、結局理由は何?」
「え?」
 せっかく緩みかけていたネルの表情が、またいっぺんに硬くなる。
「ここに来た理由だよ」
「それは・・・だ、だから・・・」
「それは?」
「別に、言わなくてもいいじゃないか」
「言ってくれてもいいだろ?」
「だったら言わなくてもいいじゃ・・・っ」
 季節外れなコートに顔を埋められて、ネルの言葉は途中で途切れた。
 コーネリアスの腕から逃れようとして、何とかそれを払いのけようとする。
「ちょっ、離しなっ・・・」
「言ってくれ、ネル・・・」
「っ・・・」
 ネルの抵抗はそこでぴたりと止まった。
 耳元で囁かれた言葉と、彼の匂いと・・・。それだけで堪らなく胸が熱くなった。もやもやしたものが、抑えきれない程に膨らんでくる。
 押し潰されそうな胸を押さえながら、ネルは何とか言葉を搾り出した。
「あんたに・・・会いたかったからだよ・・・」
 彼の腕が少しだけ、優しく締め付けてきた。
「ネル・・・」
 上の方から聞こえた声に、ネルは顔を上げた。コーネリアスは優しい眼差しでネルを見下ろしていた。
 赤と黒のオッド・アイに吸い込まれそうになって、ネルは動けなくなった。
 次の瞬間、唇から伝わってくる熱に、この気持ちに身を委ねてもいいなと思っている自分がいた。

「シーハーツの女性はどうして皆マフラーを巻いてるんだろうね?」
「そんなの、んっ、決まりだからに決まってるだろう?」
 これからだという時なのに、彼はいつも微妙にムードの無い話題を振ってくる。
「あのマフラー、長いから取るのが手間なんだけどね」
 それも、身体のあちらこちらを触りながらしてくるものだから、私の言葉にはどうしても・・・そういったモノが入ってしまう。
「何言ってるんだい、いつも嬉しそうに脱がせる癖に、んぁっ!」
 むしろそこを狙ってるんじゃないだろうか、と思うと何か納得いかない。
「初めてネルを見たときは、首だけそんなに重装備だからてっきり首が弱いヒトなのかなぁって思ってたんだけど・・・」
 そう言って、彼はうなじにつつと舌を這わせた。そしてそのまま耳の下まで、こそばゆいような感覚に思わず声が出る。
「マフラーはあんまり関係無かったみたいだね」
 余裕のある彼の微笑が少し悔しい。
「っ・・・!」
 首筋を弄り回していた彼の唇が、鎖骨の辺りに薄い色の花を散らして、思わず身体が跳ねる。
「ちょっと、何するんだい!痕が残るじゃないか!」
 怒鳴り声に、彼は不思議そうな表情をしてみせる。
「これは痕が残らなきゃ意味が無いだろう?さ、脚を開いて」
「なっ、ちょっ・・・ふぁっ!」
 そう言うや彼の頭は視界の下に消えて、途端に全身をあの感覚が走った。
 堪らず近くにあった枕に顔を押し付ける。くぐもった声が頭に響いた。
「ん゛、んっ・・・あっ!」
 急に抱き上げられて、頼みの綱だった枕が両の腕から零れ落ちてしまった。少し恨みがましい視線で、不満そうにしている彼を睨んだ。
「勿体無いな、どうして声を抑えるのさ?」
「そんなの・・・決まってるじゃないか・・・」
 彼の視線に思わず目を逸らして、最後の方は声が消えかかってしまった。
「決まってるって?」
「・・・」
「言ってくれなきゃ分からないよ」
「は・・か・・から・・・」
「ほら、恥ずかしがらずにもっと大きな声で」
「・・・あんた、分かってて言ってるだろ」
「はは、バレたか。あぁ、悪かったから拗ねないでくれよ」
 そっぽを向いた私の背中から、彼の腕が回された。彼の右手に、インクの汚れが見えた。
「ネルはずっと初々しいね。穢れの無い天使みたいだ」
 どうしてこの男はこんなに恥ずかしいことをさらっと言うのだろうか。理解できないし、やり辛い。でもそれ以上に、そんな彼の事をどうして自分はこんなにも・・・
「ネルのそんなところが、可愛くて、大好きだよ」
 こんなにも・・・。
「・・・バカ言ってるんじゃないよ・・・」
 ベッドの足が、きしりと音を立てた。この日初めて、私からした口付けだった。
 そして彼の両腕に包まれながら、私は白いシーツに身を預けた。
「ネル・・・」
「何だい?」
「キミに会えて本当に良かった」
「なっ、んあぁっ!」
 彼のモノが私の身体を貫いた。下腹部に響く熱と異物感とが私の思考を犯してゆく。耳に響き続ける、彼の言葉と共に。
「コーネリアスっ!コーネリアスっ!!」
 彼の名前を夢中で叫んだ。理性も体裁も何もかもが無くなって、ただ彼への気持ちだけが、愛しさだけが私を包んだ。彼を愛したい。全身がそう叫んでいた。彼の精を受け止めて、私の身体は果てた。

「あのさ、仕事机の事なんだけど」
 私は彼の腕の中で、瞼を閉じたままに聴いていた。辺りはもうすっかり暗くなっていて、涼しい風がカーテンを揺らしていた。
「なんだい?」
「あそこじゃダメかな?あの場所なら、夕日を見ながら詩が書けるから」
「だから、詩ばっかり書いてないで仕事しなよ。それに目にも良くないだろう?」
 理性の戻った私の口は、ため息混じりにさっきと同じような答えを吐き出した。
「キミに見えるんだ」
「え?」
 何の事を言っているのか、よく分からなかった。
「夕日がね、ネルに見えるんだ。ネルの紅い髪に。だから夕日を見ていたら、ネルが傍に居るような気がするんだよ」
「・・・バカだね、私はいつもあんたの傍に居るじゃないか」
 顔なんて上げられない。きっと真っ赤になっているに違いないから。
「あれ、忙しいって言ってなかったっけ?」
 なのにこの男ときたら・・・。
「っ!もう、人をからかうのもいい加減にしなっ!」
「ごめん、ついつい。ありがとうネル、本当に嬉しいよ」
 こんな風になだめられてしまう自分も、大差ないのかもしれない。
 目を瞑ったら、瞼の裏には、紅い光に溢れた部屋で机に向かう黒い背中が、まだこびり付いていた。
「あのさ、今度・・・」
「何?」

―――― あんたの書いた詩、読ませておくれよ。


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